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仙台地方裁判所 昭和59年(ヨ)573号 決定

債権者 中里武

債務者 社団法人日本海員掖済会

主文

一  本件申請を却下する。

二  申請費用は債権者の負担とする。

理由

一  当事者の申立て

債権者は、「債務者は債権者が社団法人日本海員掖済会塩釜病院において就労することを妨害してはならない。」との裁判を求め、債務者は、「債権者の申請を却下する。」との裁判を求めた。

二  当裁判所の判断

1  債務者は、船員及びその家族並びに遺族に対する掖済援護事業を行うことを目的として設立された社団法人であり、東京都に本部、各道府県に支部を置き、小樽市外八ケ所に病院、東京都外十数か所に診療所を有していること、債権者は、昭和四六年九月債務者に医師として雇用され、以後債務者の経営する社団法人日本海員掖済会塩釜病院(以下「塩釜病院」という。)に勤務していた医師であること、債務者は、昭和五八年一二月二一日、債権者が多くの上司、同僚の勤務医に対し塩釜病院の退職を余儀なくさせる言動をとるなど著しく協調性を欠き、これがために同病院の勤務医の補充が事実上困難となり、塩釜病院の経営自体が危殆に瀕していることを理由として債権者を解雇したこと、これに対し債権者は、同年一二月二四日、右解雇の無効を理由に当裁判所に地位保全、賃金仮払いの仮処分を申請し、翌五九年三月二六日これを認容する仮処分決定を得たこと、債務者は、右仮処分決定がなされた同じ日付で、債権者に対し、自宅待機を命ずる旨通知し、債権者からの再三にわたる塩釜病院での就労要求を拒否していること、以上の事実は当事者間に争いがない。

2  ところで、本件仮処分申請における被保全権利に関して、債権者は、債務者が債権者に対してなした前記解雇処分は無効なものであり、債権者・債務者間の雇用契約は現在も存続しているから、債権者は債務者に対し右雇用契約に基づき塩釜病院で現実に就労させることを求め得る権利(就労請求権)がある旨主張する。

そこでまず、その主張する就労請求権の存否に関する判断をするに先立つて、その主張する就労の妨害排除を仮処分において認める必要性があるかどうかについて検討する。

もともと仮の地位を定める仮処分とは本案の請求権自体の満足を図ることを目的とするものではなく、あくまでも有効無効をめぐる争いのある権利関係について生じている急迫な危険を防止するために債権者に暫定的な措置を簡易迅速に講じようとするものであることはいうまでもない。このことは労働仮処分についても同様である。仮の地位を定める労働仮処分もまた仮の救済制度である。仮の救済制度であるということは、決して本案の請求権による強制執行の先取りを目的とするものではなく、本案の解決に至るまでの間の必要な暫定的な処置を定めるということである。労働者の収入の全額又はその大部分は賃金である。したがつて、これを得られなくなれば労働者は直ちに生活に困窮するのが通常である。解雇されたために収入の道を失い、生活の維持が困難となつた労働者に最低限度の必要な救済を仮に認めることとしているのが労働仮処分である。

したがつて、不当解雇を理由に従前の雇用契約上の権利の保全を目的とする仮処分において、本件のように、賃金の仮払いに加え、さらに進んで従前の職場での就労までを認める必要性は特段の事情のない限り肯定することができないものといわなければならない(債権者の申請した賃金仮払いの仮処分が既に認容されていることは前記のとおりである。)。

この点につき債権者は、「医師は、日々の医療の現場で患者に接し、医療行為を継続していくなかで医療技術を維持、研鑚し、修練を積んでいくもので、その診断、治療における判断力及び決断力には、微妙かつ高度なものが要請され、それは、日々患者に接することによつて鍛錬され、一種の「職業的勘」にまで高められて、はじめて的確な診断、治療が可能になる」旨主張し、医師が長期間医療職場に就労できない場合の不利益として、〈1〉診断、治療に要請される高度な判断力、決断力が急速に失われ、医療技術が低下する。〈2〉日々進歩する新しい診断技術、治療技術を習得し、技術向上をはかる機会が失われ、一般水準と同等の技術水準を維持することが不可能となる。〈3〉長期間医師としての業務を行つていないことによつて医師としての社会的信用、評価が低下する。〈4〉職歴上及び昇給昇格等待遇上の不利益をもたらす。〈5〉長期間の不就労は場合によつては医療行為に携わること自体を不可能にし事実上医師資格喪失と同様の結果をもたらすとの各点をあげ、就労の必要性があることを強調している。

しかし、債権者において予想されるとする右不利益を仮に肯定することができたとしても、前記仮処分の制度の趣旨に照らしてみれば、これをもつて直ちにその就労を保全する必要性を認めるだけの特段の事情があるということはできないばかりか、右のような不利益自体、債権者の他病院等での臨時就労又は自己研鑚及び職場復帰後の研修等でかなりの程度まで回復することができるとみられるものであるのである。

したがつて、本件仮処分の必要性について債権者の主張、疎明は不十分なものといわざるをえない。

3  以上のとおり、債権者の本件申請は保全の必要性についての疎明がなく、保証を立てさせて疎明にかえることも相当でないから、その余の点について判断するまでもなく本件申請を却下することとし、申請費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり決定する。

(裁判官 武田平次郎 光前幸一 大門匡)

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